太陽の脚

湯を沸かし、野菜を刻み、卵を焼き……。慌ただしくもあり、満ち足りているようでもありのふだんの朝のひととき。
この頃は、朝陽の昇る景色を見ている。
今朝は山の上に灰色の雲がかかっていた。
雲と空の境界は橙色に縁どられ、橙色の縁どりから放射状に太陽の脚が伸びている。
出るぞ、昇るぞ、太陽神のお出ましだぞー!そんなふうだな、と今朝は見た。

日の出

dav

廊下の行き止まりに椅子が2つ。
毎朝晩、そこに座って話していた人たちが退院していかれた。
空いた椅子に座れば、向かいの山から太陽が昇ってくる。
まだ太陽が見えない頃は、山々の尾根の上あたりの雲は、柿色や橙色に染まっていた。
しばらく柿色の空を眺めているうちに太陽がのぞき始めた。
目をつむりたくなる眩しさがはじけ、光が広がって行く。一帯の柿色がだんだんとくすんできた。
太陽がスルリと山の端から抜け出たのは、10月29日6時37分であった。
日の出の瞬間を見守るなんてことはめったにない。
母は毎朝、自分流の体操をしながら日の出を迎えると、パンパンと手を打って、
ああ、お日さんはありがたい、と呟いていた。
あの頃の母親の年齢になっている。
体操もしなければなア。

20151026_105830

一筋、ひとかけらの雲も無かった青空に、すーっと白いものが現れて、綿菓子みたいになった。
それから……。そっと箸でさばかれたように広がっていった。
雲は湧くもの。雲は生まれるものなんだなア。
親羊と寄り添う子羊に見えていた雲が、ほんのしばらくしたら、ふわふわーっと千切れて、形が変わっていった。
なんだか、羊の刈り取られた毛がぽかりぽかりと浮かんでいる景色になった。

病室の窓から空を見上げている。

やったね~。

部屋から霧を眺めていた頃、若い彼女は無事に城趾に登り着いたようだ。
朝陽を帯びた霧の海、ポカリポカリと霧の海から頂を出している山々を撮影している。
グルリと動画もアップされている。
やったね~。
4時起きと言っていたけれど、ちゃんと自分で目を覚ましたんだねぇ。
昔、私も充分に若かった頃、雲海の撮影に、遠く三瓶山まで出かけた。
自分で撮影するわけではなかった。
早朝、ドンドンとドアを叩かれ、まだ暗い山道を車で登って行った。
壮大な景色に感動したが、起こされ、車に押し込められ、連れて行かれたに過ぎぬ。
それも仕事で。

見えた?

dav

今日もまた、深い霧の朝。病室から霧に煙る木々を見ている。
車で20分離れた私の暮らす里にはめったに霧は降らないけれど、ここではたびたび霧の朝を迎えている。
いつもの秋の今頃なら、晴れ晴れとした青空に深呼吸をしているだろうなア。
ずうっと長期にわたってリハビリにかかわってもらっている若い彼女は、今日の早朝から、カメラを持って古城趾に登るのだと言っていた。
眼下に予期していた霧の海は見えただろうか?

dav

当分の間、病院暮らしです、と知らせたら、目は不自由ではないのだから、と3人の人から本が届いた。
本そのものの重量も、内容も、軽いものが良かろうと文庫本や写真集や絵本が届いた。
入院前の自宅に宅急便で届いた。
入院してからは、手提げ袋に本を詰めて持ってきてくれる人もある。
これまで、読みたい本は自分で選ぶばかりであった。自然と傾向が同じようなものに固まっていた。
この度の入院で届いた本の中には読んだものもあって、
彼女も同じ作家に興味があるのだなア、と頬が緩んだりした。
ほとんどは自分で手にとることが無かった本であった。
狭い病室での日々、眠れぬ時間は本を読む。
本の分野が少し広がった。

霧の朝

ただ一面に立ち込めた
牧場の朝の霧の海……

霧の中に朝陽もあって、乳白色の霧が少しピンクや朱色がかって見えるところもある。
手近な木々は薄黒く、その向こうに見えるはずのおだやかに丸い形の山々が、今朝は見えない。
この町のシンボル、今は城跡だけになっているが、別名、霧ヶ城でもあった。それほど霧が多い。
車で20分、わが家のあたりは今ごろ、朝陽が晴れ晴れと照っているだろう。
めったに霧の降りぬ里である。

手作り

dav

かがめず、靴下が履けないときには履きやすくする道具を。
着替えのズボンが引き上げられないときにもその対策を。
ふくらはぎも足首も痛い、と言えば、靴の中に、土踏まずや踵の位置にひとくふうした中敷きを入れてくれる。
クリップや紐やボードなど、手近にあるものを切ったり、貼ったり、結んだりして、便利な道具を作ってくれる。
作業療法士、理学療法士、そんな資格を持った若い人たちが、この太った老人の脚をなでたり、押さえたり、引っ張ったり、さまざまな療治を施してくれたうえに、便利な道具を手作りしてくれる。
こんな便利なものが市販されていますよ、と勧められるのではない。
ボードをカットする際の下書の線がゆがみながら残っているのも、なんだかうれしい。

運動②

72年の生涯で今ほど運動をしたこと、させられたことが無い。
股関節の手術後ちょうど2週間(8月21日)である。
ここ2、3日のリハビリメニューのキツいこと。
手術翌日には車椅子に乗せられ、立てと言われても、丸太ん棒のような脚は動かぬ。
2日目にはリハビリ専門病棟に移された。以来、土曜も日曜日もリハビリ漬けである。
前中さんに6人のスタッフが組まれています、とのこと。
手厚く、丁寧に筋肉を揉みほぐした後には、押す、伸ばす、引っ張る、曲げる。
歩け、跨げ、10回繰り返しましょう!の掛け声に囃され、励まされながら動く。
なにせ、動くことに興味の無かった人生。
どこをどう動かせば脚が伸びるのか?
頭が命令しても心は痛さにおびえ、脚はどう動けば良いのか迷うようだ。
こんな72歳を孫のような若者たちが、誉めておだてて、励ましてくれる。
華奢な肩にこの身の太い脚を乗せて、力を抜いて!との掛け声である。
気の毒で思わず力が入ってしまうのだ。
おかげで、日に日に脚の動きが良くなる。
車椅子を卒業し、歩行噐となり、短い距離なら杖だけで歩けるようになった。
栄養士の管理のもとに作られ供される食事。
毎朝の検温、血圧チェック。
ドクター常駐。
リハビリは3時間を超える。
いや~。これほどぜいたくな運動の経験は二度と無かろう。

運動①

小中学校9年間は、片道およそ1里を歩いて通学していたけれど、
72年の生涯は、走らず、泳がず、跳ばず、動かずの歳月であった。
運動会で目の前が開けていることは無かった。いつも何人かの背中を見て走った。
マラソン大会のときは、たまたま?腹が痛む、風邪気味で……と親が届けてくれた。
高校3年、最後の年ぐらい、と参加したら、ゴールしたとたんに気絶した。
気がついたら朝礼台の上に置かれていた。ビリではなかったらしい。
大学時代の体育の時間は遊びのようなものだった。
アメフトの監督であった先生は、女子には寛大寛容で、走れとも跳べとも言われなかった。
冬、キャンパス外のスケート場での授業は、行ったという証明書があるだけで良かった。
仕事に就いてからは取材の旅があり、ときには山道を歩き、ときには岬の突端に行くこともあったが、
後に酒、料理、温泉という楽しみが待っていた。
老いてからの日々、周囲にはせっせと歩いている人を見る。
ヨガにプールに体操に、グランドゴルフに……と熱心な人たちが多い。
興味が湧かぬ。