月別アーカイブ: 2014年7月

おないどし

もう50年もたつ。
大学の学生課で紹介された下宿屋での初対面で自己紹介しあうと生年月日が同じだった。
こじんまりとした一戸建ての階下が大屋さんの住まいで、2階の4室が貸し室であった。朝夕食付きの下宿生活が始まった。
その春、新入生の私たち2人がお世話になることになった下宿屋には2年生と4年生の先輩がおられた。
英文科の4年生は東京出身、黒々と大きな目が力強く、化粧もしっかり手慣れた風で、田舎出の新入生の目にはぐんと大人の女性であった。
2年生は大阪出身、コロリと丸い体形に親しみが持てたのは、わが身とよく似た体つきだったせいかもしれぬ。
もう一人の新入生は、わたしとはまるで異なるスラリとした体形、顔立ちもスッキリ。出身は山口県。東京、大阪出身の先輩方にひけをとらぬ、あか抜けた美人であった。
昭和40年(1965)春の出会いであった。
ちなみに、4年生の部屋は、廊下の奥の角部屋で2方に窓があった。その向かいが2年生の部屋、襖を隔ててもう一人の新入生の部屋、ともに4畳半であったか?
一番後に入居が決まったわたしの部屋は、階段を上がってすぐの最も狭い3畳であった。
下宿での明け暮れはけっこう厳しかった。
女子学生ということで、門限は夕方6時。あらかじめ申し出ておけばそれよりも遅くなってもよかったが、6時の夕食に間に合うために、あたふたと帰ってこなければならなかった。
夜遊びなど知らぬときであったし、田舎での親元暮らしでも学校から帰れば外出することもなく、夕方、はやばやと家族そろって食事をとることがあたりまえのことではあったけれど、なにしろ大学生になったばかりである。知り合ったばかりのクラスメイトとのおしゃべりが楽しいし、時計台のある図書館の前に広がる芝生でのひとときは、うらうらとのどかであったし、男女学生ともに上級生はおしゃれで、あちらを見ても、どこを歩いても心浮かれていた。
夏の6時、帰るには心残りな時刻であった。
早い夕食の後、誰かの部屋に集まってお菓子を食べたりしゃべったりで夜更かしをした翌朝は、「なんだか賑やかだったわね」ピシリと釘を刺された。階下に気をつかって声をひそめたつもりがかえって不快なもの音に響いたのだろう。
けれどときには、深夜、階下から「おとうさんがお寿司をお土産に持って帰ったから降りていらっしゃい」と声がかかることがあった。ありがたいような、迷惑なような気分を抱いて、ポトリポトリと階段を降り、酔って帰った大家のおじさんの手土産寿司をモソモソといただいたりした。
 
1年たって、おないどし2人は下宿を出た。
当時、文化住宅と呼ばれていたところに引っ越した。
長屋の中に廊下を挟んで20だったか、各戸の玄関扉が並び、扉の内には、狭い台所とトイレ、6畳と4畳半が襖で仕切られていた。風呂は付いてない。
おないどしの共同生活が始まった。
当時、地方から出てきた学生たちの暮らし方は、学生寮であったり、賄い付きの下宿であったり、大学の近くに学生ばかりが住む部屋を借りて、食事は大学の食堂でとるというのもあれば、学生のために何部屋かを貸し室として、共同の風呂や炊事場を設けているというのもあった。
文化住宅での共同生活は、1週間交代で炊事当番をし、いっしょに銭湯に通った。
冷蔵庫や炊飯器は持たず、備え付けの鋳物のガスコンロひとつに鍋をかけ、ご飯を炊き、次いでおかずを煮たり焼いたりした。
長屋の中で学生はわたしたちだけであった。
長い廊下は風や人の通り道であったが、住人の暮らしの音の通り道でもあった。
毎日のように夫婦喧嘩の声があがったのは、廊下の一番端の住まいからであった。
瀬戸物の割れる音、殺せ―!の悲鳴にも驚かされたが、離婚などということにもならず、夫婦とはふしぎなものだと感心もした。
生まれ育った家は、田畑に囲まれ隣家の物音など聞こえぬ距離にあった。
隣室は若い夫婦で、こどもが2人いた。
いつも大きな割烹着を着けた奥さんは、元気に動き回り、声高にこどもを叱り、狭い台所で行水をさせていた。
学生であるわたしたちにたびたび借金の申し入れがあって困った。それも少額であったから断りにくかった。
斜め前の部屋からは終日ミシンの音が聞こえた。
たいていはいっしょに夕食をとり、その後で銭湯に行った。ひとりでは夜道が怖かった。
フォークソングの神田川は昭和48年(1973)の発売である。わたしたちの銭湯通いはそれよりも数年前。似たような情景が思い出される。
文化住宅での共同生活は2年間であった。
おないどしの彼女が結婚をした。お相手は兄上の友人でかねてより交際が続いていた。
彼女は新居のマンションへと引っ越して行き、わたしは6畳に小さなキッチン付き、風呂無し、トイレは共同というアパートへと移った。

現在、山口県に住むおないどしの彼女には孫が2人。
いまも背筋がシャンと伸び、美しく年齢を重ねている。
この頃、年に一度、何から何までご招待の温泉旅行に誘ってくれる。貧乏暮らしのおないどしのことをいつも気づかってくれる。
7月は誕生月であった。

ねむの木

買い物へと走る道―、山から道路へ枝をさしのべている、ねむの木。
大木でありながら、ピンクの花が、ほわほわと可愛くて優しい。
わが家の周辺にはねむの木が無い。
ねむの木が欲しくて小さな木を植えた。もう、10年も前のことである。
まだ花は咲かない。
10年もたっているのに、木の丈はほんの30センチほどである。
資料によれば、花の咲くのは10年もたってから、とある。なら、仕方がない。
丈の低いのは、毎年、毎年、草刈りのつど、草刈り機で刈り飛ばされているからである。
住まいの裏の林の下草刈りをお願いしている。
野鳥たちに食べられ、糞として落とされて、やがて芽生えた万両やなんてんなどは、丈が低くても草を刈る人の気づかいがされて、そこかしこに残されている。
なぜか、いつも、ねむの木は刈り飛ばされてしまう。
刈り飛ばされるけれども、根こそぎというわけではないので、一年のうちにまた、ひょろひょろと立ち上がって葉を広げる。
さすがに今年、確かめてみれば低いながらも根元などずいぶんとしっかりしている。
葉の緑も濃い。
ここに居る!気を付けて刈れよ、と主張しているようだ。
来年あたり、そろそろ花が見られるかも知れない。待ってる。

親に似ず…

アジサイの花が終わった頃、適当に切り取ってプスプスと挿し木をしておいたら、何本かは根付いてくれる。
アジサイを買ってきて何回も植えたけれど育たなかった、と若い隣人が言うのを聞いて、挿し木が成功したのを鉢植えにしてプレゼントした。
さて、無事に成長したかな?またまた育たなかったか…。
わたしのところでも、モクレンを3回植えたけれど、ついに育たなかった。ハナミズキは植えてから10年、一度も花が咲いたことがない。
土が良くないのか、何が気に召さぬのか、わからない。
アジサイやムクゲ、ツバキ、サザンカなどはもう何年も何年も、季節がめぐればきれいな花を見せてくれる。
「咲きました」と隣人から知らせがあった。
見に行ったら、茎丈30センチほどながら、濃い緑の葉をしっかりとつけ、真ん中にピンクの花がほほえむように咲いていた。
わが家の花は濃い青色である。
土によって花の色が異なるらしいが、ホント、そのとおり。親に似ぬ花色である。
娘?らしいかわいい色。
隣人の一歳になるお嬢ちゃんにちなんで、勝手に、¨ちいちゃん¨と名付けた。
若い隣人は、いずれはアジサイで垣根を作るつもりだと言う。
その一番初めの木である。
うれしいな~。

似ている!?

雨に降り込められる日々。
退屈紛らしに薄日の射しはじめた林に出てみた。
ようやくわが家のアジサイが青い花を咲かせたが、今年は花の数が少ない。
花が終わると、チョキンと枝を切り落としておくのだけれど、どうやら昨年は、切る時期、切る箇所をまちがえたようだ。
蕾がつくはずのところを切り取ってしまったのだ、きっと。
切り取った枝を適当な長さにして、そこかしこにプスプスと挿している。
挿した枝から緑の葉が出る場合もある。
今回は3本、挿し木成功。
小さな葉っぱに顔を寄せれば、そばにモミジも10センチほど、細い茎を伸ばしている。山椒の木もチョロリと背伸び。
あたりを見回して、こぶし大の石を拾って、小さな木を囲んだ。
ん?似ているな、この光景。
手術後の母が杖をつきつつ、ゆっくりと林の中を歩いていた。母の歩いたあとに小石が並べられているところがあった。
椿、山椒が小さな茎を伸ばしているのを見つけて、目印に小石で囲んでいた。
まだわたしの足どりは、当時の母のごとくトボトボとまではなっていないけれど、思いのありようが似てきたようだ。