花見

小学生だったころ、戸数30の集落の中で車を持っている家は1軒だけだった。山の仕事をしている家で、車は三輪車であった。
花見に行こうとのお誘いがあった。都合のつく人は誰でもという呼びかけであった。
なにしろ、この先は行き止まりの集落である。どの家も濃い強いつながりがある。親しいとか、仲がよい悪いなどは関係がない。
三輪車の荷台に乗り込んで行こうということになっていた。
隣町の大きな湖のほとりの桜が見頃になるころ、近隣から花見客が繰り出してくるということは知っていた。
行ってきた人たちの土産話を聞くばかりの母は、毎年、行きたそうにしていた。
母もわたしも、湖の桜を村の人たちといっしょに見に行ったことはなかった。
「車の荷台に乗り込んでわざわざ遠くまで花見に行かんでも、ここから見える桜がよっぽどきれい」だと父親がいつも言うので、母は参加しにくかったようだ。
わたしは、父親53歳のときのこどもである。父と母とは30余も年の差があった。
若い母は、三輪車の荷台に村の人たちと乗り合わせて花見というイベントに参加したかったのだろう。
小学生のわたしも、湖のほとりにおおぜいの人が繰り出して、花の下でお弁当をひろげている楽しげな光景を重い描いては、悔しかったり悲しかったりしたものだ。
今ならわかる。あのころの父親の年齢と同じ年代となった今、四斗谷の桜がきれいだとわかる。
花の下で弁当をひろげる人たちもいない。土ぼこりも喧騒もない。うぐいすが歌い、時おり、自家用車が出たり入ったりしている。
そんな桜が見られることが幸せと思っている。

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